ブログトップ | ログイン

陽子ママ日記

UP BEAT-UNDERGROUND【白煙の彼方へ~音速三人衆始末記 / NOLLY MACH3 回想録】

花岡さんが書いた回想録

読んで感動して興奮して…
up-beatファンの方にもぜひ見てもらいたい!と花岡さんに連絡して許可をいただきました。

花岡さん、ありがとうございました!




【白煙の彼方へ~音速三人衆始末記 / NOLLY MACH3 回想録】

第八章~WARM UP PERIOD FOR THE MACH3~マッハスリー暖機運転

1981年、俺は高校三年生だった。翌年の芸大受験を控えて遊んでいる暇は無かった筈だが遊びまくっていた・・・いや、バンド三昧だった。ハイスクールバンドで演れるところなら、ところ構わず演奏してブイブイ言わせていた俺の目の前に突如としてアイツは現れた。

アイツの名前は広石武彦。通称・タコと云う男である。どこでどうしてこの俺の事を知ったのか?未だに良く分からないが、とにかくアイツは俺の目の前に突然現れた。何のために?タコのバンドのベーシストとして俺を勧誘するためである。

当時、タコは定時制高校に通っており、俺のような全日制の高校生から観ると物凄く自由人に観えたものだった。細身で長身で妙にグニャグニャと体が柔らかそうな印象の男だった。そんな特徴からタコと呼ばれているのだと思い込んでいたくらいだ(笑)

まあ、とにかく、タコはいきなり現れて俺を勧誘しに来た。自分もそうだが、こういうストレートな男は昔から好きである(笑)。「こういうのが好きやから・・・こんな風なバンドにしたい・・・」と、ラモーンズやハートブレイカーズなどが収録されたカセットテープをくれた記憶がある。そのカセットテープに収められた音源は全て俺の好みと合うものだったし、今思えば直感的に意氣投合しタコのバンドへの加入を決めたと思う。

タコのバンドに加入したと云うよりも、まだタコバンドが完全に組み上がっていない状態だった。まだバンド名も決まっていなかったし、俺以外のメンバーは全員が「もじもん」(門司区居住者)だと言うではないか!小倉城下で生まれ育ち、その後小倉南区に移住はしたものの、俺にとっての当時の世界観では門司区なんて全然関係ない遠い場所だった。それこそ外国的(笑)な感覚もあった。「俺だけ、遠いやんか!」と意味もなく不公平に思ったが、何はともあれメンバーで集まってミーティングしようという事になり、バイクを飛ばして門司駅前商店街に突入。商店街のどこだっけか?モスバーガーか?喫茶店か?どこかで、メンバー全員と面会した。Voはタコ、Gは青山、Drは嶋田、俺以外は全員一つ下の学年だった。ラモーンズ的な楽曲でオリジナルをやっていこうと方針も決まり、これまた門司駅前商店街の中にある「小鳩楽器店」という楽器屋のスタジオで練習を繰り広げる事となった。練習の日はベースをソフトケースに入れて背負い、雨の日も雪の日もバイクに跨りノーヘルで出動、キカイダーの「ギターのジロー」そのものだった・・・あ、いやジローはヘルメット被ってたな(笑)

小鳩楽器店のスタジオは、床が抜けそうなオンボロなスタジオだったが、上記メンバーと初めて音合わせした時は素直に感動した。まず嶋田のドラムが完璧だった。まさにトミー・ラモーンばりのタイトな8ビートに一発で惚れ込んだし、サンバーストのモズライト・マークⅠを掻き鳴らす青山のギターにも感動したし、タコのジョーイ・ラモーンのようなスタイルにも感動した。そう、全てが今まで演って来たハイスクールバンドとは次元が全く違った。それはテクニック的な次元などではなく、メンバー全員の「志の次元」が相当に高いものだったのである。とにかく新鮮な感動だった。もう記憶も曖昧だが、このメンバーで最初に演った曲はラモーンズの「Let’s  Dance」だったと思う。メンバー一丸となって噴出させる音は、まさしく電撃バップそのものだった。とにかく氣持ち良かった。これこそが、今も昔も変わらない中毒性の高い「ラモーンズ・スタイルの氣持ち良さ」だった。

こうして何度かのミーティングの後に、バンド名は「UP BEAT-UNDERGROUND」と決定された。このバンド名決定のアイデアや方針は、タコ個人が主に進めて行った。決定に関しては、俺自身は一切口出しをしなかった。当時から俺の胸の内には「マッハスリー」という言葉は渦巻いてはいたものの、このタコのバンドでは何故か使う氣持ちは生まれなかった。何故だったかは、良く思い出せない。

そして、このUP BEAT - UNDERGROUNDは小鳩楽器スタジオで練習を重ね、その後は小倉の魚町銀店街の中の松田楽器店や北九楽器などでもスタジオ練習をするようになり、満を持して当時の北九州ロックシーンに殴り込む体勢を整え、そして遂にはラモーンズスタイルという形態を捨ててUP BEATとバンド名を変えて東京でのメジャーデビューを果たして行ったのである。そして俺は、メジャーデビュー直前に脱退し北九州に残りマッハスリー結成への道を歩んで行った。

そんな時期に録音されたUP BEAT-UNDERGROUNDの音源を30数年ぶりに聴いてみた。よくもまあ、こうして残っていたものである。今となっては突っ込みどころ満載の稚拙なものだが、やはり嶋田のドラムが一際耳に残る。本当に素晴らしいドラマーだったと思う。当時、高校生であった事を考えると驚きのビートである。惜しむらくは、嶋田がUP BEATとしてメジャーデビューしてから解散後はドラムを辞めてしまったと伝え聞く事だ。もしも嶋田がパンクロックドラマーとして、俺と同じ道を歩んでいたら・・・と思うと本当に惜しいが、それも人生と云う大海の荒波の中では仕方のなかった事なのだろう。やはり当時の九州のバンドマンにとって、東京メジャーデビューと云うものは大きなステータスであり大きな夢だったのだから・・・

そして、この音源の中の自分自身のベース。なかなか良い音を出しているのには正直感心した。当時弾いていたのは、松田楽器店で中古で入手した1975年製のメイプルネックのフェンダーUSAのPBで、当時入手できたベース弦はヤマハ製のバラ売りの弦のみだったが、意外にも良い音だったのには驚いた。タイムマシンがあるのならば当時の俺を褒めてやりたい、今の俺より良い音を出しているかも・・・若いって良いね(笑)

1981年~1983年にかけてのUP BEAT-UNDERGROUNDの時代は、まさにマッハスリーエンジンの暖機運転の時代であった。この時期に充分にエンジンを暖める事が出来たからこそマッハスリーで加速できたのだ、間違いない。思い出は白煙の彼方から鮮やかに蘇る。

NOLLY MACH3 (2016年2月10日 記)

*写真は1981年頃

f0085810_14141538.jpg

f0085810_14141515.jpg

f0085810_14141745.jpg

f0085810_14141720.jpg

f0085810_14141995.jpg


Commented by やん at 2018-06-01 15:49 x
面白かった。タコさん以外も凄い人なのは音でわかったよ。
Commented by escapade-mama at 2018-06-01 18:19
> やんさん
すごく良い文章だよねー!
ほんとみなさんすごい人

写真に載ってる青山さんは映画監督で、奥様はとよた真帆さんだよ。

やんさんにUP- BEAT褒められたらうれしいなぁ♡ありがとう!
by escapade-mama | 2018-06-01 14:09 | 広石武彦・UP-BEAT・T4R | Comments(2)